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三河の住人の庵

三河の住人の庵

鳥取城

2012.08.18登城  2012.09.03作成

お濠を越え 鳥取県立博物館に車を停めた。
もうここは城内、城代屋敷があったという場所である。
後ろにそびえる久松山(標高263m)が 鳥取城の城域である。

  • 鳥取久松山.JPG


山麓には近世城郭跡の山下ノ丸 そして急坂を登った山頂には中世城郭跡がある。
比高260mの山城である。

博物館脇の 中仕切御門から登城を開始する。

  • 鳥取 北の御門.JPG


  • 鳥取中仕切門.JPG



山下ノ丸 二の丸に復元された御三階櫓跡。
  • 鳥取三階櫓跡.JPG



二の丸にある神社の横から登山道がある。市民の散歩道になっているらしく入り口に竹杖が用意されていて ありがたい味方になる。

  • 鳥取杖.JPG


急坂を登ること20分で山上ノ丸の二の丸跡に到達する。
説明板が立っている。


『史跡鳥取城跡附太閤ケ平』
「 鳥取城は、戦国時代中頃(天文年間)に、久松山の自然地形を利用した山城として築かれたことに始まる。以後、因幡地方の政治拠点となり、近世においては因幡・伯耆二国の支配拠点の城として長い間存続した。このため、鳥取城跡には、中世の山城的遺構と近世城郭遺構が併存しており、日本城郭史上でも数例の少ない城郭である。このことから、学術的・歴史的にも貴重な城郭として昭和三十二年に国の史跡に指定された。
 鳥取城の築城時期については諸説があるが、この城が因幡支配の拠点の本城となったのは武田高信の時期であり、のちに山名豊国がここに移った。この頃の鳥取城の中心は、山上ノ丸とそこから西方に延びる非常に急な尾根を中心に設けられており、現在も斜面を平らに削った平坦な遺構が数多く残っている。
 山頂を中心とした山上ノ丸は、久松山を大きく切り開き、その廻りを高い石垣で囲っている。本丸には、天守櫓・車井戸・著見(月見)櫓等を設けていた。天守櫓は元禄五年(一六九二)に落雷のため焼失してしまい、再建されることはなかったが、その他の建物は明治時代の初めまで残っていた。
 山上ノ丸には、本丸の他にも東側に二ノ丸、三ノ丸とよばれる曲輪があり、一段低いところに出丸が設けられている。西の尾根を下ると鐘ケ平、太鼓ケ平、松ノ丸などの曲輪が残されている。
 なお鳥取城は戦国時代の末に、織田氏と毛利氏の対立から二度にわたって、羽柴秀吉の攻撃を受けている。特に天正九年(一五八一)の秀吉と鳥取城将・吉川経家との戦いは「鳥取の渇え殺し」として知られ、そのときに秀吉が築いた陣跡が本陣山に残っており、太閤ケ平として鳥取城とあわせて指定されている。
文 化 庁
鳥取市教育委員会
平成十三年 三月                  」

  • 鳥取城山上ノ丸見取り図.jpg


天守台からの鳥取砂丘方面の眺望は素晴らしい。
あえぎあえぎ登ったものの特権である。

  • 鳥取山上眺望.JPG


山中に 中世の曲輪あるということだが 足を延ばす気にはなれなかった。

坂道を下りて 再び山下ノ丸に戻ると 一番高いところに天球丸跡がある。 

  • 鳥取天球丸.JPG



大手門から三の丸へと下りていく。

  • 鳥取城大手.JPG


二の丸の石垣が見事である。

  • 鳥取二の丸石垣.JPG


三の丸跡は 県立高校の敷地になっていた。



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